<<集団的自衛権をめぐる不毛な議論をただす2 >>

平成27年 7月11日

7/12 sridブログリリース(sridブログ該当記事

菊地 英宏

集団的自衛権を危険視する議論が激しい。

違憲であるという神学論争から始まり、徴兵制に繋がるとか、自衛隊員のリスクが増大するなど非常に愚かな誤解に基づいた議論が広がっている。

そこで、集団的自衛権をめぐる議論を交通整理しようと思う。

1.集団的自衛権は、軍事的負担の低減を目的としている

現代社会においては、戦力を含めた、多くのリソース(資源)は国家単位で管理されている。このため、この垣根を越えることは、容易ではない。たとえば、ある国で、起きている紛争がいずれ、自国に飛び火したり、敵対勢力が拡大したりして、いずれ、自国にとって脅威になることがわかっていても、さまざまな条件を乗り越えなければ、これに早期に対処することは、難しい。

だが、日本においては、国際的な連携の難しさと言う、本来の障害の手前に、憲法と言う壁があると従来考えられてきた。

本来、ある、共通の敵に対処する際に、各国が国家単位を乗り越えて、リソースを共有できれば、戦力の逐次投入や、各個撃破を避けて効率的に敵を排除できることは明白である。

これは、

部分的な最適の積み上げによる戦果 < 全体的な最適化を施した結果による戦果

と言うことであり、当たり前のことである。

これは、あからさまに言ってしまえば、共通の敵に対処するためには、同盟国ができるだけ協力し合ったほうが、犠牲をもっとも少なく抑えて敵を抑止することができることを示している。

つまり、集団的自衛権を行使しないで、共通の敵に対処するためには、より多くの犠牲と、より多くの戦力が必要であることを示している。即ち、集団的自衛権を行使しない前提では、より多くの冗長な戦力と、より多くの冗長な犠牲が求められることを意味している。

一言で言えば、効率的な戦力リソースの移動と行使ができない制約下では、犠牲の拡大と負担の増大は、不可避である。この現実がわからない人間は、国政を司る資格はない。

2.(徴兵制をはじめとする)文民の兵士としての投入は、効率よりも、戦力を最大値にすることを優先しなければならない事態の発生を意味する。

 文民を兵士として投入すれば、効率が悪い。

当たり前のことである。

だが、例外的に文民を投入しなければならない事態も存在する。それは、はっきり言おう。外征ではない。本土決戦である。お分かりであろうか。

文民は、その性質上、内地で、生産活動に従事していたほうが、生産的であり、より多くの戦力を生み出すことに繋がるという点で、戦場が外部にある場合は、戦争に勝つという目的に合致する。これは、何も軍事産業に限ったことではなく、サービス業なども、民間リソースの最適配置に貢献する産業であり、そして、それは、即ち、生産力の維持、向上に貢献するため、戦争に勝つためには、文民には、内地で、経済活動を行っていてもらったほうがよいのである。

しかし、例外が存在する。敵が内地に侵入し、もはや、経済活動を維持することができず、内地の安全を確保しなければ、それらの人がまったく戦争に貢献できなくなってしまう事態が発生した場合である。

つまり、本土が戦場と化したときである。そのときは、皆が銃を取らなければならない。

一言で言えば、戦争に負けるような事態が発生した場合、すべての人間の安全が脅かされるということである。

3.集団的自衛権の否認をはじめとする過度の安保上の制約は、自衛隊員だけでなく、国民全体のリスクを増大する。

我々は、もう一度、再確認する必要がある。自衛隊が危機に対処できるようになることがリスクなのではなくて、危機に対処できずに、戦争に負けることがリスクなのだということを。

戦争に負ければ、自衛隊員のリスクはもちろん、文民のリスクも増大し、殺害の可能性すらあることを認識しなければならない。

現に、敗戦後、連合国の手によって、多くの国民が、形だけの裁判で死刑にされたではないか。占領軍にとって一般人を処刑する口実など、いくらでもあり、イラクの一般市民が、テロリストと間違われて、処刑される確率を考えれば、わが国が外国に占領されることを許すことなど到底考えられないことがわかると思う。

つまり、集団的自衛権などで過度な制約を設けた結果、戦争に負ければ、そのリスクは、もっとも大きくなることを意味する。

4.法律の自動運用を前提とした国家は、そもそも、成立しない

一部の、野党をはじめとする、自衛権の行使に過度の制約を設けようとする人間たちに共通する感覚は、「法律を厳格に定め、それが、自動的に運用されていることが理想的」という感覚である。

したがって、彼らは、解釈の変更を含めて、動的な運用を一切認めないのである。

そもそも、彼らが言うように、具体的な事態をすべて、特定し、具体的な対処をすべて法律の中に書き込むことが可能であるならば、

“解釈や判例は一切必要がない”

のである。

解釈や判例があるのは、そもそも、

“解釈や判例によって法律の意味がある程度変わる”

からである。

法律とは、そもそも、解釈や、判例によって意味がある程度、変わるように柔軟性を持って作るものなのである。

ある程度の制約と、ある程度の柔軟性、その両立を求めた結果が、解釈や、判例なのである。

これは、法律は、即座に変えられるものではないため、ある程度の幅を持って決めておき、状況によって、運用者の合理的判断が入る余地を残すためである。

5.このような判断は、すべて、法律や、それに基づく、国家の構築は、物理的な意味でシステムを如何に効率的に組むかと言うシステム構築学の領域であるからだ。

憲法に必要な要件は1つしかない。

ⅰ)その国の国民の利益に忠実であること。

そして、そこに生物学的な法則、遺伝子群は、生存と繁栄を求める。が加わると、憲法にかけることには、少なくとも、二つの制約が加わる。

a) その国の国民が変えようと思ったとき、合理的手段で憲法自身を変えられること。

b) その国の国民以外の意思で、憲法が変えられたり、国民の生存権が脅かされたりすることを物理的に阻止できる正当性を付与すること。

そのほかのことも、大まかにⅰ)と、“遺伝子群は生存と繁栄を求める”から、導くことができる。

つまり、憲法や、法律は、自由に書けるようでいて、実は、そうではない。

社会の物理層(フィジカルレイヤ)の制約に従わなければならないからだ。

憲法九条は、b)の原則に反している。

よって、これは、条文として何度書いても、それに効力が発生することはない。

したがって、これ(九条)に反しているか、議論することは、そもそも、法律論として無意味である。

本来、このようなことが議論できることが、“憲法学”であるべきである。少なくとも、学問、科学をなのるのなら、そうすべきであるが、きっと、科学的でない、何かをしているということなのだろう。

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