8月になると日本では毎年毎年核廃絶に向けた誓いを総理大臣と広島、長崎市長が立てる。彼らは、口をそろえて言う。悲劇を繰り返さないために核無き世界を目指すと言う。
政治とは現実であり、また理想でもある。
この言葉を理解しない人が多い。理想もしくは現実だけで突き進めると信じている人々は多い。核無き世界を目指す人々はそれが、本音なら理想のみに生きる人々であり、言葉が偽りなら、現実のみに生きる人々である。どちらも好ましくない。
ジャーナリストの日高義樹氏によれば、1941年12月6日、アメリカ議会はフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が計上した6000ドルの原爆開発のための予算を認めた。
大日本帝国海軍が真珠湾を攻撃したのはアメリカでは、12月7日のこととして知られている。
つまり、アメリカ合衆国は広島、長崎に投下する新型爆弾の用意を
、日本がアメリカを攻撃する以前から始めていたのだ。
そして、重要なことは、1941年12月6日は、間違いなく「核無き世界」であった。
「核無き世界」で、史上初の原爆投下の悪意は「計上」されたのだ。
もし、この時、「平和憲法」と一部の日本人が呼ぶものと、その中核をなす、 九条があったとして、日本はこの悪意から免れたであろうか?
また、この時もし、大日本帝国が、核実験を世界中に示す形で実現できていれば、大東亜戦争は、ABCD包囲網は、あっただろうか。
たられば、を所詮たらればだと片づけることは簡単だ。
しかし、歴史は学問の一つである。そして、学問は科学から逃れられない。
科学とは複雑系に時間とともに与える条件を変化させ、どう変わるか、実験したり、それが不可能なら、論理的分析を施すことにある。
「核無き世界」で、原爆投下の悪意が「計上」された意味は大きい。
日本国の全ての政治勢力は、この歴史的事実を、全面的に認めて方針を転換しなければならない。
さらに踏み込むが、「核無き世界」だったからこそこのナチスのホロコーストを超えるといっても差し支えない程の巨大な悪意が「計上」されたのだ。
日本に核抑止力があれば、この悪意が計上されなかったことは明らかだ。
悪意の均衡があれば、世界は巨大な戦争に突入することを免れた。これこそが、核抑止の神髄である。
一方が悪意を持ち、ボタンを押そうとしているときにそれを食い止めることは、もう一方も同じ兵器をもちいつでも反撃に使えることを示すこと以外にない。
別の角度から、理論的に説明して行こう。U国とR国が1発の核弾頭で均衡していたとする。
この時、核開発に成功し、年間100発の核弾頭の密造能力のあるC国がその悪意を具現化すると
一年後の状態ではすでに、C国が100発の核弾頭を保有しており、
U国とR国がそれを上回った生産を行っていない限り、均衡は脆くも崩れ、C国の悪意を止める手段が世界から消える。
もしU国とR国の均衡が10000発だったらどうか。C国が100発の核を保有したところで、均衡は崩れない。
物理学的に言って0発に近い均衡は系が不安定であり、やや、難しい言葉を使うなら、ポテンシャルエナジーが高いということが分かる。そして、ポテンシャルエナジーが高いところにあるボールは、するすると転がり、安定した位置に向かって移動する。その状態遷移が核戦争である。
では、核均衡は大きければ大きいほど、系が安定なのか。
実はそうではない。少ない数の核弾頭では、確率的に小さい、不慮の核戦争、例えば、テロリストへの核爆弾の流出や、エラーによって起こる核戦争の確率が、均衡の数の増大とともに増加するからだ。
だから、系のポテンシャルエナジーを記すと、有限値の適切な値のところのポテンシャルエナジーが最も低く、系が安定し、それよりも、小さくても、大きくても、系はポテンシャルエナジーを減じようとして核戦争に至ることが分かる。
話が「理論的」に飛んだので、現実的な話をしよう。
世界の主導権を、金正雲や、習近平に託すことは正しい選択と言えるだろうか。
民主的な国家の軍隊でなく、独裁者や、一党独裁の軍隊がいかに危険であるかは論を待たないと思う。
かつての日本でさえ、民主化は自主的に進んでおり彼らよりも数段、民主的な国家であったのだ。
それでさえ、ゾルゲと尾崎秀実による悪意を許してしまった。
まして個人経営や、党の経営する国家なら、そういった悪意の介在する確率は格段に高く、また、その頭脳自体が世界の安定に悪意を持つことは十分考えられることである。
非常に危険な勢力が何の歯止めもなく、核を持とうとしている。
それが世界の現実である。
かつて、ヒトラーは「大英帝国は血を流すことを恐れている」という思い込みから戦争を始めた。
日本も血を流すことを躊躇っている。もしくは、核を持つことを躊躇っていると認識されたら、東アジア地域で紛争が起き、日本に原爆が投下される確率は極めて高い。
ここで、読者の中にはアメリカ合衆国の核抑止があるではないかという人がいると思う。
だが、筆者は、アメリカの核は全くあてにならないと考えている。
理由は簡単で、過去は、習近平をはじめとする、「狂人たちの核」が、届くのは日本周辺の東アジアだけであり、米本土は全く無傷で、核による「アウトレンジ戦法」が通用した。
しかし、今や、すべてが変わった。狂人たちの核はその射程を延ばし、遂にアメリカ本土がその射程に入ったのだ。
この状況で狂人たちが、「自分たちは十分に狂っている。日本を助けるために核を使えば、たとえ自分たちが全滅してもアメリカ本土を核で焦土にする」と脅せばどうか。
アメリカの政治家も国民を相手に政治をしている。アメリカの戦争を限定的にしか助けてくれない言わば、
「限定同盟国」の日本のために、本土を焦土にしても助けるという選択をするかどうかは、甚だ疑問である。
ここでも、原爆投下の悲劇を強調する日本の試みは、アメリカを、日本を助けることについて及び腰にする
材料を提供してしまっているという点において、逆効果となっている。
現実と理想の両方を考えるならば、核を適切な均衡に導くことこそが正しい軍縮の道であり、
悪戯に核廃絶を求めるのは、戦争を呼び込む行いである。
このまま、日本が非核化を訴え続ければ、我々の子孫は、永遠に狂人たちの言いなりになるか、それとも、狂人たちの原爆の熱線と放射能で全滅するのか、選択しなければならなくなる。
反対に我々が核武装を選択すれば、没落しつつある、アメリカによる平和を大いに補強し、アメリカにも
「我々は、それでも良いが、核武装した日本はそれでは黙っていないだろう。どうなっても我々は知らない。」
と狂人たちを脅すカードが一つ増えるのである。
最後に、核を持つ際の重要な精神を書く。
我々は、狂人たちとは違い、野心や、野蛮な領土拡張計画の実現のために核を持つのでない。
日本こそが、核の悲劇を知る日本こそが、核の番人として均衡を監視し、真の世界平和を実現維持するために、核を持つのだ。
我々は、善人であるがゆえに核を持つ。その考え方を徹底しなければならない。
広島、長崎で亡くなった方々のためにも、二度と、核戦争の悲劇を起こさないためにも、日本は善人として核を持ち、真の世界平和の実現と維持に向けて、影響力を積極的に行使しなければならない。
正しく強くあろう。それこそが日本である。
菊地 英宏
山口多聞記念国際戦略研究所 代表