ホロコーストの総括が甘いのはどちらだ。細野豪志の事実認識を糾す!

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http://srid.publog.jp/archives/1056302714.html

産経ニュース2016.4.25 12:00の記事「政治家よ、GHQに植え付けられた自虐史観にいつまで囚われるつもりなのか?」を読んだ。同記事の要約は以下の通り、

サイパン陥落後、日本軍の海空戦力は、ほとんど失われており、それ以降は米国による一方的な殺戮が行われた。

これは、人道上、許されないことであるのに、国会議員の認識は甘い。2015年3月10日民主党の細野豪志政調会長は、東京大空襲について「国策の誤りを反映した結果だ」と述べて、

ホロコーストを引き合いに「ホロコーストを全体としてしっかりと総括しているのがドイツだ。わが国が先の戦争で自国民はもちろん、周辺諸国に対して大変な被害をもたらしたことについて真摯に反省することは重要だ。残念ながら今の安倍政権を見ているとそこに疑念を持つ。戦後70年を迎えるにあたって心していかなければならない」

と述べた

筆者は、細野豪志に対して、怒りを通り越して呆れた。

ホロコーストとは、大量虐殺を指す。特に大勢の無辜の民を焼き殺すことはホロコースト本来の定義に忠実な使い方である。

つまり、本来のホロコーストの意味では、米軍こそがホロコーストを行ったのである。

この件に関して、米国には一切の弁解の余地がない。

彼らがその蛮行を正当化しようと持ち出す、

1.戦争の終結を早めた

2.日本の工業力を破壊するためだった

は、いずれも稚拙な嘘であり、それを正当化することに加担することは、ナチスドイツのガス室を肯定するような愚かで、許されない振る舞いであることをここに書き記しておこうではないか。

1.2.とも実は、一つのことを指摘すれば事足りる問題である。

つまり、戦争における生産系は直列系を並べた並列系であり、どの直列系の最後にも必ず大規模工場が鎮座する。戦闘機工場や、造船所である。

これらの大規模工場は、B29を使っても、十分直接攻撃が可能なほど大きな標的であり、周辺を巻き添えにする正当性など全くないのである。

このように指摘すると彼らは、以下のように反論するかもしれない。

「日本の工業力の大半は下町の小規模工場である」

このような答えを返すのは、統計にとらわれた愚か者の発想である。

例えば、航空機。それぞれの部品は町工場で作ることが可能だし、実際にそれは行われていたことだ。だが、それを組み立てて、飛べるものにするためには、広大な敷地を必要とする航空機組み立て工場が必要である。また、その最終工程に位置する大規模工場こそが、最も再建が困難な、重要目標なのである。

言い換えるとそこさえ、破壊すれば、他の町工場など何の役にも立たないのである。

従って、そのような直列系の中に鎮座する大規模工場さえ狙えば、日本の工業力を破壊する目的は達することができるにも関わらず、

絨毯爆撃を行った

のは別の目的があったからである。

つまり、人間そのものの殺戮である。

従って、アメリカ合衆国による絨毯爆撃は、その動機と行動、結果すべてにおいて、ナチスドイツのホロコーストと並び論ぜられる、“立派な”ホロコーストなのである。

ところで、「国策を誤った結果」とこのホロコーストを正当化する御仁は、きっとナチスドイツにいたら、「相手国が国策を誤った結果」とホロコーストを正当化するのだろうと思う。

国策を誤ろうがどうしようが、

一般市民を無差別に焼き殺すことを正当化することなど、いかなるものにもできないことは明らかである。

憲法はじめとするすべての法律は、なぜ存在するか

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法律はなぜ存在するか。

山口多聞記念国際戦略研究所 菊地英宏

週刊SPAによると、1月19日、14時から衆議院第一会館地下会議室にて、「憲政の常道(立憲政治)を取り戻す国民運動委員会」(略称・民間「立憲」臨調)の発足記者会見が行われた。

同記事によると小林節氏は、

「戦争法案が動きだしたときに、我々は何度もあらゆるところで公開討論を要求しました。でも彼ら(安保法制賛成派)は出てこないんですね。出てこなくて、そして、我々の発言者を1人づつ言論の場から退場させる動きをしてきた。それに対しては本当に私はすごく腹が立っています。ですから、これからも公開討論を提案していきたいと思います。マスコミの方たちもそれを覚えておいて、(彼らに)『言ってたよ』と伝えてください」

と発言している。

記者会見の冒頭に「我々は政治運動をするつもりはありません」と述べた小林節氏本人が、“戦争法案”という言葉を使うあたりは、やはり、杜撰な仕事をする人間だということを筆者は再認識したが、以下の小林節氏の発言は、学者の発言とは思えないので、取り上げることにする。小林氏は以下のように述べている。

『憲法とは主権者の国民が権力者を縛るもの』と言った途端に、

『あ、私たちはそういう憲法観は取りません』とスポーンと話が飛んじゃう連中がいる。これはただの無知蒙昧ですから、

そういう人たちとは公開論争で一戦を交えることは試みますけど、そういった人たちはさすがに(民間「立憲」臨調にはお声がけしませんでした。それ以外の人たちは、かつての私の論敵もお声がけしています」

果たしてそうだろうか。彼は、法律や行動規範がなぜ生まれたのか基礎的な生物学的見識を持っているのだろうか。僕は、著しく疑問に思う。

生物学的な人間の生存戦略を抜きにした法律論争は、学問的真理にそもそも基づかないので、単なる小学生の遊びであって、学問ではない。

結論から言うならば、法律や行動規範といったものは、憲法も含めて、遺伝子群を構成する個体すべての行動を制約する。これは、群れの行動をある程度コントロールすることによって、遺伝子群の生存確率を上げるための生物の一員としてのホモサピエンスの選択である。従って、憲法や法律により制約を受けるのは群れの構成員全員であり、そもそも、憲法はじめあらゆる法律体系は権力者の行動を国民が縛るためのものではない。

法律がそもそも、何のために存在するか考えると、

なぜ、殺人をするといけないか。という問いに対する答えも容易に見つけることができる。

殺人が、法律で禁止されるには、生物学的な裏付けがあるのである。

それは、

生存繁栄のためのエネルギーを無駄遣いする遺伝子群(群れを構成する遺伝子)は滅びる

という原則に対応したものである。

このため、必要以上に好戦的な遺伝子は、法律によって、人間社会から排除される。

したがって、遺伝子群の利益に合致する殺人(例えば、戦争行為で敵を倒すことや、犯罪者の犯罪行為を阻止するために警察官が犯罪者を射殺すること、正当防衛など)は、

法律的にも肯定されなければならない行為

である。したがって、法律はそのように構成されている。

つまり、法律にそれが書いてあるので、そのような制約があるのではなく、生物学的な遺伝子群としての国民の生存戦略に適合するように法律を書き、そして、効力を与えているという認識こそが正しいのである。

つまり、全ての関連する法律は、主権者を構成する遺伝子群の生存と繁栄を補助するために存在しているに過ぎない存在である。

なぜならば、群れこそが、全ての法律に効力や力を付与している力の根源であるからである。

従って、小学生の遊びではなく、本来の学者ならば、以下の問いに即座に答えることができないといけない。

憲法を含めたすべての法律の条文は、直接的に群れ(遺伝子群)全体の生存権を侵害することができるか?

答えは、できないである。

全ての法律に力を付与しているのが主権者全体(遺伝子群)であって、その全体の生存権を直接的に侵害する条文は、如何なる、正当な手続きを踏んでも定めることができない。

という認識を持つことが正常な学者としての判断である。

このように考えれば、憲法9条について、学者が展開すべき神学論は、明らかであるように思う。

生物学的に、生存に適した法律を持たない群れは滅び、そして、適した法律、行動規範を持つ遺伝子群が生存してきた。このため、すべての法律が存在するその存在意義は、群れの生存である。従って群れの生存権を否定する法律や憲法は、いかなる手続きを経ても制定できないことは、自明である。

このことは、さらに深く考えると、法律が法律として存在するための守るべき三要件として提起することができる。

それは、

ⅰ)すべての法律は、群れの生存権を直接的に侵害してはいけない。

ⅱ)すべての法律は、群れの多数が望めば、変えることができなければならない。

ⅲ)すべての法律は、自然界の法則に反してはいけない。

この三要件を満たさない法律は、如何に正当な手続きを経たように考えられても、定めることはできないし、仮に定めても効力が発生することはない。

憲法九条は、国家を構成する日本国民全体の生存権の否定であり、従って、これが、効力を持つことはない。事実、解釈改憲により、日本国家は、独立以降、自衛力を持ち、戦後、9条は直ちに効力を停止されたという認識こそが正しいのである。

即ち、国家国民にとって、群れの生存と存続は、絶対の善であり、その目的のために、すべての法律体系は存在するのである。

このことが「立憲」の方々に理解されないのは不思議で仕方がないのだが、主権者が定めてもいない憲法をもとに立憲主義を説くのだから、その杜撰な論理からは、以上のようなことが理解できないのは、仕方がないと認識するほかない。

 

米中対決 10の大胆予測!

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米中対決 10の大胆予測

2015/11/05

米中対決 10の大胆予測

菊地 英宏

山口多聞記念国際研究所代表・首席上級研究員

1.中共軍の人工島の巨大航空基地は、一隻の米空母を上回る防空能力を有さず、むしろ、防空能力はこれに劣る。

2.この人工島の脅威は、人工島の航空基地が、中共の本国艦隊の支援及び、共同戦闘をどの程度受けられるかによる。

3.米海軍駆逐艦による人工島周辺での行動は、2についての中共艦隊の用意を知るために行われている。

4.中共海軍が、原子力空母による本格的機動艦隊をどの時期までに建設することができるか、あるいはできないかが、米中対決の勝敗を分けることになる。油断はできないが、原潜については、中共海軍が米軍に太刀打ちすることは難しいだろう。

5.現代においては、電子戦、電波戦における技術のほうが、すでに公開されている民生技術の転用により、急追することが可能であり、従って、中共は、原子力空母による機動艦隊の建設とそれに搭載する戦闘機及び、対潜哨戒システム(ヘリ及び艦載機)の建設に注力することが最適戦略と言える。

6.対する米側は、中共空母への攻撃は、攻撃型原子力潜水艦と原子力空母の両方が担うことになる。米軍の指揮が適切ならば、中共による対潜哨戒は、米空母艦載機によるミッションキルにより、成果をほとんど挙げることができない。

7.中共地上航空基地に対する米側の攻撃の主力はSSGNが担うことになる。SSGNの搭載するロングレンジの巡航ミサイルにより、中共航空基地は大きな脅威を受ける。また、SSGNは、特殊部隊の侵入作戦を実施することがあり、これも含めて中共地上基地は、複合的な脅威を受けることになる。(SSGN:戦略ミサイル原潜(SSBN)の弾道ミサイル用垂直セルを改造し、多数の水中発射巡航ミサイルを搭載(百数十発と云われる)した原潜)

8.中共の攻撃型原潜は、現状では、騒音のため、中共機動部隊の水中護衛をすることは難しく、通商破壊のような機動的作戦に従事することになるだろう。中共の通常潜水艦は、待ち伏せ攻撃のような、いわゆる移動機雷としての脅威を米国に与えるが、大きな脅威を与えることは難しいだろう。

9.日本が保有するヘリ空母は、シーレーン及び後方地域で、中共の攻撃型原潜による通商破壊及び、輸送破壊のような障害に対処することになる。これは、ひとえに日本側のこれらの艦隊の防空能力に問題があるためであり、中共の機動部隊が進出してきた場合、単独戦闘は困難である。

10.米国が、断固たる姿勢で、大規模な早期の介入をした場合、中共が勝利を得ることは難しいだろう。

 

学問とジャーナリズムと政治、それぞれの本質的役割

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学問とジャーナリズムと政治、それぞれの本質的役割

安保法制違憲の立場の小林節教授が興味深い発言をしている。

産経ニュースより抜粋する。

/*産経ニュースより引用はじめ

http://www.sankei.com/politics/print/150909/plt1509090030-c.html

小林節教授は6月22日、衆院特別委員会においてこう述べている。

「われわれは大学でのびのびと育ててもらっている人間で、利害は知らない。条文の客観的意味について、神学論争を言い伝える立場にいる。字面に拘泥するのがわれわれの仕事で、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、そちらが調整してほしい。われわれに決定権があるとはさらさら思えない」

引用終わり*/

神学論争という言葉に飛びついて彼を批判したくなった保守論壇の人士もいると思うが、「利害は知らない」、「神学論争」は、ある意味学者の役割として正しい。

しかし、正確には、「神学論争を言い伝える」ではなく、「神学論争をする」のが学者の一つの役割であり、一つの固定された見解を言い伝える語り部のようなものではないし、もっとも大きな間違いは、

「字面に拘泥するのが我々の仕事」

と言っている点である。

学者が拘泥するのは、

「学問的真理」のみであり、「その一部でしかない字面のみに拘泥する」のは、学者の仕事ではない。彼は、根本的に学者としての役割を誤認している。

学問的真理の核を構成するのは、

「物理、数理的感覚とそこから展開される、生物学的真理、そして、それらに基づく、人間の一人としての判断である。」

その為、生物学的に(その背景を辿って行くと物理的に)なぜ、人間が法律を生み出したのかという学問的問いに“拘泥”できないものは、そもそも、法律を巡って「神学論争をする資格がない」のである。

生物的な人間の生存戦略を抜きにした法律論争は、学問的真理にそもそも基づかないので、単なる小学生の遊びであって、学問ではない。

なぜ、殺人をするといけないか。

という問いを発したドラマなどが散見されるが、殺人が、法律で禁止されるには、生物学的な裏付けがあるのである。

それは、

生存繁栄のためのエネルギーを無駄遣いする遺伝子群(群れを構成する遺伝子)は滅びる

という原則に対応したものである。

このため、必要以上に好戦的な遺伝子は、法律によって、人間社会から排除される。

したがって、遺伝子群の利益に合致する殺人(例えば、戦争行為で敵を倒すことや、犯罪者の犯罪行為を阻止するために警察官が犯罪者を射殺すること、正当防衛など)は、

法律的にも肯定されなければならない行為

である。したがって、法律はそのように構成されている。

つまり、法律にそれが書いてあるので、そのような制約があるのではなく、生物学的な遺伝子群としての日本国民の生存戦略に適合するように法律を書き、そして、効力を与えているという認識こそが正しいのである。

つまり、全ての関連する法律は、主権者を構成する遺伝子群の生存と繁栄を補助するために存在しているに過ぎない存在である。

なぜならば、主権者こそが、全ての法律に効力や力を付与している力の根源であるからである。

従って、小学生の遊びではなく、本来の学者ならば、以下の問いに即座に答えることができないといけない。

憲法を含めたすべての法律の条文は、直接的に主権者全体の生存権を侵害することができるか?

答えは、できないである。

全ての法律に力を付与しているのが主権者であって、その生存権を直接的に侵害する条文は、如何なる、正当な手続きを踏んでも定めることができない。

という認識を持つことが正常な学者としての判断である。

このように考えれば、憲法9条について、学者が展開すべき神学論は、明らかであるように思う。

結論も出たと思うので、ここで、学者、ジャーナリスト、政治家それぞれの立場を明らかにしたい。

学者は、事実の認識、そこから派生する解釈の全てを、自らの把握している事実から展開しなければならない。この点で、事実から派生すること以外は言わないし、余計な影響を受けないという点において、神学論争は、大いにありである。勿論、事実に基づくという前提で、考えるならば、そのルールさえ守っていれば、思想、立場の自由も大いにありなのである。

そして、ジャーナリストは、事実の認識は事実そのものに基づくが、解釈のある程度の自由を有するのである。それは、事実から、そこまで言えないような大胆な解釈を社会の一般大衆は時に必要とし、そして、ジャーナリズムは、この後記述する政治と学問のスムーズな橋渡しをするのが役割であるからである。だから、ジャーナリズムの解釈においては、事実の認識がしっかりしているならば、解釈には、ある程度の自由度があるのである。すなわち、新聞などのメディアは、ある程度の偏りを許されていると認識すべきである。

最後に政治家であるが、これは、政治的な正しさに生きるものであり、解釈だけでなく、事実の認識においても、遺伝子群の生存のためにある程度の自由度を与えられている。つまり、現実の運転手なのである。

これらの役割分担は、実に、システムとしてよくできている。

学問が基準時刻をさし、政治家は、国家国民の生存のために時に時刻を曲げる。しかし、曲げたということは分かっていないといけないため、これらの役割は分かれており、学問は、常に基準時刻を指している。

政治的な「学者」がバカにされるのは、このためである。

基準時刻を曲げてしまったら、本来どうあるべきかさえ、主権者自身がわからなくなってしまう。そしてジャーナリズムの役割は、両者の間のクッション材である。

我々は、このような、本来のあるべき姿をよく理解して、様々な問題に対してあたらなければならない。

 

菊地 英宏

山口多聞記念国際戦略研究所 代表

 

<<集団的自衛権をめぐる不毛な議論をただす2 >>

平成27年 7月11日

7/12 sridブログリリース(sridブログ該当記事

菊地 英宏

集団的自衛権を危険視する議論が激しい。

違憲であるという神学論争から始まり、徴兵制に繋がるとか、自衛隊員のリスクが増大するなど非常に愚かな誤解に基づいた議論が広がっている。

そこで、集団的自衛権をめぐる議論を交通整理しようと思う。

1.集団的自衛権は、軍事的負担の低減を目的としている

現代社会においては、戦力を含めた、多くのリソース(資源)は国家単位で管理されている。このため、この垣根を越えることは、容易ではない。たとえば、ある国で、起きている紛争がいずれ、自国に飛び火したり、敵対勢力が拡大したりして、いずれ、自国にとって脅威になることがわかっていても、さまざまな条件を乗り越えなければ、これに早期に対処することは、難しい。

だが、日本においては、国際的な連携の難しさと言う、本来の障害の手前に、憲法と言う壁があると従来考えられてきた。

本来、ある、共通の敵に対処する際に、各国が国家単位を乗り越えて、リソースを共有できれば、戦力の逐次投入や、各個撃破を避けて効率的に敵を排除できることは明白である。

これは、

部分的な最適の積み上げによる戦果 < 全体的な最適化を施した結果による戦果

と言うことであり、当たり前のことである。

これは、あからさまに言ってしまえば、共通の敵に対処するためには、同盟国ができるだけ協力し合ったほうが、犠牲をもっとも少なく抑えて敵を抑止することができることを示している。

つまり、集団的自衛権を行使しないで、共通の敵に対処するためには、より多くの犠牲と、より多くの戦力が必要であることを示している。即ち、集団的自衛権を行使しない前提では、より多くの冗長な戦力と、より多くの冗長な犠牲が求められることを意味している。

一言で言えば、効率的な戦力リソースの移動と行使ができない制約下では、犠牲の拡大と負担の増大は、不可避である。この現実がわからない人間は、国政を司る資格はない。

2.(徴兵制をはじめとする)文民の兵士としての投入は、効率よりも、戦力を最大値にすることを優先しなければならない事態の発生を意味する。

 文民を兵士として投入すれば、効率が悪い。

当たり前のことである。

だが、例外的に文民を投入しなければならない事態も存在する。それは、はっきり言おう。外征ではない。本土決戦である。お分かりであろうか。

文民は、その性質上、内地で、生産活動に従事していたほうが、生産的であり、より多くの戦力を生み出すことに繋がるという点で、戦場が外部にある場合は、戦争に勝つという目的に合致する。これは、何も軍事産業に限ったことではなく、サービス業なども、民間リソースの最適配置に貢献する産業であり、そして、それは、即ち、生産力の維持、向上に貢献するため、戦争に勝つためには、文民には、内地で、経済活動を行っていてもらったほうがよいのである。

しかし、例外が存在する。敵が内地に侵入し、もはや、経済活動を維持することができず、内地の安全を確保しなければ、それらの人がまったく戦争に貢献できなくなってしまう事態が発生した場合である。

つまり、本土が戦場と化したときである。そのときは、皆が銃を取らなければならない。

一言で言えば、戦争に負けるような事態が発生した場合、すべての人間の安全が脅かされるということである。

3.集団的自衛権の否認をはじめとする過度の安保上の制約は、自衛隊員だけでなく、国民全体のリスクを増大する。

我々は、もう一度、再確認する必要がある。自衛隊が危機に対処できるようになることがリスクなのではなくて、危機に対処できずに、戦争に負けることがリスクなのだということを。

戦争に負ければ、自衛隊員のリスクはもちろん、文民のリスクも増大し、殺害の可能性すらあることを認識しなければならない。

現に、敗戦後、連合国の手によって、多くの国民が、形だけの裁判で死刑にされたではないか。占領軍にとって一般人を処刑する口実など、いくらでもあり、イラクの一般市民が、テロリストと間違われて、処刑される確率を考えれば、わが国が外国に占領されることを許すことなど到底考えられないことがわかると思う。

つまり、集団的自衛権などで過度な制約を設けた結果、戦争に負ければ、そのリスクは、もっとも大きくなることを意味する。

4.法律の自動運用を前提とした国家は、そもそも、成立しない

一部の、野党をはじめとする、自衛権の行使に過度の制約を設けようとする人間たちに共通する感覚は、「法律を厳格に定め、それが、自動的に運用されていることが理想的」という感覚である。

したがって、彼らは、解釈の変更を含めて、動的な運用を一切認めないのである。

そもそも、彼らが言うように、具体的な事態をすべて、特定し、具体的な対処をすべて法律の中に書き込むことが可能であるならば、

“解釈や判例は一切必要がない”

のである。

解釈や判例があるのは、そもそも、

“解釈や判例によって法律の意味がある程度変わる”

からである。

法律とは、そもそも、解釈や、判例によって意味がある程度、変わるように柔軟性を持って作るものなのである。

ある程度の制約と、ある程度の柔軟性、その両立を求めた結果が、解釈や、判例なのである。

これは、法律は、即座に変えられるものではないため、ある程度の幅を持って決めておき、状況によって、運用者の合理的判断が入る余地を残すためである。

5.このような判断は、すべて、法律や、それに基づく、国家の構築は、物理的な意味でシステムを如何に効率的に組むかと言うシステム構築学の領域であるからだ。

憲法に必要な要件は1つしかない。

ⅰ)その国の国民の利益に忠実であること。

そして、そこに生物学的な法則、遺伝子群は、生存と繁栄を求める。が加わると、憲法にかけることには、少なくとも、二つの制約が加わる。

a) その国の国民が変えようと思ったとき、合理的手段で憲法自身を変えられること。

b) その国の国民以外の意思で、憲法が変えられたり、国民の生存権が脅かされたりすることを物理的に阻止できる正当性を付与すること。

そのほかのことも、大まかにⅰ)と、“遺伝子群は生存と繁栄を求める”から、導くことができる。

つまり、憲法や、法律は、自由に書けるようでいて、実は、そうではない。

社会の物理層(フィジカルレイヤ)の制約に従わなければならないからだ。

憲法九条は、b)の原則に反している。

よって、これは、条文として何度書いても、それに効力が発生することはない。

したがって、これ(九条)に反しているか、議論することは、そもそも、法律論として無意味である。

本来、このようなことが議論できることが、“憲法学”であるべきである。少なくとも、学問、科学をなのるのなら、そうすべきであるが、きっと、科学的でない、何かをしているということなのだろう。

<今、人々の笑顔を護るために科学の力を!>(平和を守るために科学の力を結集せよ!)

2014年11月16日 18:55 facebookにて公開済み

菊地 英宏

科学者がとても、強力な力を発明して、その悪用を恐れ、技術を封印する。

それは、多くのSF映画のストーリーのベースになっている。

しかし、実際のところ、現実をよく理解している科学者ほど、そういった行動はとらない。

なぜならば、自分がその技術を封印したところで、ほかの誰かが、その技術を発明し、使って、破滅を招くことも十分に考えられるからだ。

だから、賢明な科学者は苦悩の中で、技術を公開し、善良なるもの達の手で秩序を維持しようとするだろう。

秋山真之はこんなことを言っている。「有効なる戦術は、その敵に対する漏えいを恐れるよりも、味方全体の共有による益のほうがはるかに大きい」

全くその通りである。

僕が、前代未聞の戦争指導の科学的な手法について具体的に指南する本を公開することに決めたのもそういうことである。

初めは、確かに、この強力な試みが敵に漏えいすることを恐れた。

しかし、今、私は、確信を持っている。日本の善良な人々には、この本の内容を共有し、深め、この本の内容を同様に入手するであろう他国の人々よりもはるかに強力な軍隊を作り上げる能力と意思を持っている。私は、それを強く信じるからこの本を出す。

確かに、科学は悲劇も生み出す。

フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、就任後わずか、2か月後にB29開発計画、プロジェクトAをスタートさせ、多くのアメリカの科学者がそれに協力した。そのことのもたらした結果は言をまたない。

だが、私は、日本の科学者たちがその様なことを行うとは全く考えていない。

我々が、20世紀にされたこと。それをすべて飲み込んだうえで、日本はそれでも、世界のすべての人々の幸せを、笑顔を願っている。

それこそが、僕がこの国を、この国の科学の善良な力を信じる強い強い根拠なんだ。

我々は、戦争を望まぬからこそ、強力な軍隊を持たなければならない。そして、それは、科学の力に裏打ちされた本当に強いシステムをベースにするものでなければならない。

そして、戦争を防ぐために、そうして作られた、強い力を使い、世界を導かなければならない。

戦のない世界は、必ず作れる!

だけど、それは、科学の力に裏打ちされ、抑止力に基づいた試みでなければならない。

僕は、科学者の力を総動員して、ポテンシャルエナジーの最も小さな、安定な世界を作ることに成功すれば、必ず、世界は平和になると信じている。

人類の為に宇宙に行こう。夢こそが戦略だ。日本の新成長戦略かくあるべし。

2013年8月12日 1:08 facebookで公開 (2015/07/01一部修正掲載)

菊地 英宏

今年も8月15日がやってくる。1945年8月15日、日本は夢を失った。その後の日本は経済的な夢は持ったかもしれない。しかし、経済的な夢と本当の夢は違う。

私は、自分にもし子供がいて、「金持ちになる」と夢を書いてきたら悲しく思う。とがめはしないが、これが、自分の背中を見た子供の夢かと思うと悲しく思う。そしてそれは、ごく普通の事だと思う。

私たちが大先輩たちに突き付けたのはそういうことなのだ。所得倍増と言えば聞こえは良いが、短冊に

 「金持ちになる」

と夢を書かれた親の背中は泣いていたはずだ。

民族は、国家は夢を持たねばならない。それがなければ生きていけない。しかし、それは、「金持ちになる」

といった次元の低い夢であってはならない。

「独立する。」「自由と民主主義の旗手となる。」「アジア解放を実現する。」「人種差別を一掃する。」

勿論、夢だけではご飯は食べられない。このため、どんな夢も、実利とセット販売である。例えば、「自由と民主主義の旗手となる」も、基軸通貨を握るという裏の夢とセット販売である。

しかし、大事なことがある。歴史上成功したどんな国家や民族の夢も、

 「民族の物語に組み入れられる高尚さ」と「国民が命を懸ける崇高さ」に満ち溢れているということだ。

「金持ちになる」という夢はどうか。

論評するまでもない。日本は短冊に親を悲しませる夢を書いてしまった。では、今から日本はどうすればよいのか。夢はどこにあるのか。

夢はいつでもフロンティアにある。

これは、不変の真理である。未開拓の地には夢が眠っている。どんな時も不変の真理や基本に立ち返れば、我々は答えを得ることができる。

今の、世界で、フロンティアはどこか。

宇宙である。巨大な海軍機動部隊も、原潜部隊も、ステルス機部隊も全て宇宙からの信号で駆動される。

 これから、大国が雌雄を決する舞台は宇宙となる。衛星を、宇宙基地を速やかにおさえ、情報の流れをおさえた国が勝利を手にする。

だから日本は宇宙に行かなければならない。大義名分はある。食糧問題、資源問題、エネルギー問題、地球観測、全ての解決策が宇宙にある。

宇宙空間こそが人類に、日本に残された巨大なフロンティアであり、夢なのだ。

私たちは今こそ夢を持ち立ち上がらなければならない。明治期の日本が独立と、アジア解放を旗印に立ち上がったように、人類の課題に立ち向かうために日本は宇宙に行く。

それこそが国家としての夢であり、国家としての物語であり、日本の生きる道なのだ。

これからは、

「金持ちになる」

ではなく、

 「宇宙に行き真の世界平和を実現する」

 を夢にしよう。そうすれば、日本人の夢は世界の夢となる。ナンバーワンとしての日本が帰ってくるとは言わないが、世界から応援される夢を持つことができれば、日本は強くなる。

宇宙空間の巨大なソーラーパネルは昼夜を問わず発電を可能とし、将来的には水素が核融合の材料として注目されるだろう。レアメタルの月での採掘が可能となりと夢は尽きない。

地球規模の問題に対するアクセスは宇宙に対するアクセスが不可欠である。

そして、重要なことは、大義名分だけでなく、宇宙は、日本に巨大な軍事情報ネットワークを与えてくれる。

宇宙というフロンティアで勝利すれば、日本は再び列強となることができるのだ。

そうすれば、我々のやり方を貫けばよい。

 「搾取ではなく、共生を、対立ではなく和解を、分割ではなく、統一を」

日本は過去そうやって生きてきた。不幸なことに、その正しさが、逆手にとられた時期がある。

 しかし、今や、宇宙から、強い日本は帰ってくるのだ。

日本は過去の歴史から学んだプラグマティズムを、もともと内包する強く正しき日本と融合することによって逞しく復活できるのだ。

 指導者よ。今こそ、強く、理想を語れ、夢を語れ、そしてそれは、戦略的で民衆を鼓舞するものであり、同時に不変の真理でなければならない。

日本は正しく生きてきたではないか。搾取ではなく、共生を目指し、対立ではなく和解を目指し、分割ではなく統一を目指して流れた多くの血を、命を今こそ振り返ろう。

彼らに応えるためにも、日本は

「金持ちになる」

等という短絡的思考ではなく

 「宇宙に行き、真の世界平和を守る」

 という崇高な理想に生きなければならない。

日本は命をかけるに値する国家であったし、これからもそうあらねばならない。

ここで、日本が如何に偉大で夢の為に命を懸けるに値する国家であるか書く。

1910年4月15日は、第六潜水艇がガソリン航行試験中に沈没し、佐久間艇長以下14名全員が殉職した日である。

殉職した乗組員は、一部を除いて持ち場で任務を全うし、殉職しており、残る一部の乗組員もパイプの破断箇所の修繕に最後まで力を振り絞って息絶えていた。

ガスが充満する艇内で佐久間艇長は明治天皇に艇の喪失と部下の死を謝罪し、この事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析までしている。

技術とは左様なものなのだ。夢とは左様なものなのだ。国家とは左様なものなのだ。

いかなる犠牲を払おうとも、夢の実現のために、技術の実現のために国家は鳴動し進んでいく。

この佐久間艇長以下、14名の思いを、歴史上に連なる、日本に命を捧げたすべての先人達の思いを知ってなお、

「夢は金持ちになることだ」

と言えるだろうか。

 この世の中、自分の命より大切なものはあるか。

 もちろんある。それは愛する人の命であり、それを育んだ国家の命であり、その国家を支える夢である。

その不変の真理を、知っていたからこそ、多くの荒鷲達が、若人達が、その命をアジア解放のために散らした。

彼らは、愛する人の命のために、それを育んだ国家の命の為に、それを支える国家の夢の為に殉じていったのだ。

 1945年の8月15日をもって国家が断絶したわけではない。我々はその日を境に夢を見ることを忘れ、国家の価値を忘れたのだ。

それでも、国家に殉じた人々はいる。

平成11年11月22日、T33練習機に乗った二人の優秀な空自パイロットが逝った。彼らは、最後までエンジントラブルを抱えた機を操縦して、住宅地に被害のない位置まで誘導した後、2度目のベイルアウト宣言して逝った。二度目のベイルアウト宣言は、そしてベイルアウトは、射出シートの整備員に対して、自分たちの死が決して、その整備不良にあるのではないことを示すために行ったと言われている。最後まで仲間を気遣った、立派で誇りある死である。

彼らにとっては今の日本も十分に誇りある、夢のある日本なのだ。

私はそんな彼らを誇りに思う。

 彼らの尊き背中を追おう。夢を追おう。そこには日本がある。

<<電力送電技術の点から見たエネルギーベストミックス>>

<<電力送電技術の点から見たエネルギーベストミックス>>(sridブログ)

をThe Scientist’s Review of International Defenseにリリースしました(2015/5/31)。

・長距離の電力送電技術の肝は、送電網の抵抗値よりも、むしろ、送電電圧の高さにあり、その影響をより強く受けることを式で示した。

・長期的には、蓄電池と組み合わせた、高電圧直流送電の可能性について、提案!

・自然エネルギーによる小規模発電所の可能性は、売電にではなく、蓄電池と組み合わせたエネルギーの地産地消にこそあること提示した。

ぜひご一読を。

 

菊地英宏

山口多聞記念国際戦略研究所 代表

 

【広島、長崎崇拝への警鐘】核武装なくして平和なし

8月になると日本では毎年毎年核廃絶に向けた誓いを総理大臣と広島、長崎市長が立てる。彼らは、口をそろえて言う。悲劇を繰り返さないために核無き世界を目指すと言う。

政治とは現実であり、また理想でもある。

この言葉を理解しない人が多い。理想もしくは現実だけで突き進めると信じている人々は多い。核無き世界を目指す人々はそれが、本音なら理想のみに生きる人々であり、言葉が偽りなら、現実のみに生きる人々である。どちらも好ましくない。

ジャーナリストの日高義樹氏によれば、1941年12月6日、アメリカ議会はフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が計上した6000ドルの原爆開発のための予算を認めた。

大日本帝国海軍が真珠湾を攻撃したのはアメリカでは、12月7日のこととして知られている。

つまり、アメリカ合衆国は広島、長崎に投下する新型爆弾の用意を

、日本がアメリカを攻撃する以前から始めていたのだ。

そして、重要なことは、1941年12月6日は、間違いなく「核無き世界」であった。

「核無き世界」で、史上初の原爆投下の悪意は「計上」されたのだ。

もし、この時、「平和憲法」と一部の日本人が呼ぶものと、その中核をなす、  九条があったとして、日本はこの悪意から免れたであろうか?

また、この時もし、大日本帝国が、核実験を世界中に示す形で実現できていれば、大東亜戦争は、ABCD包囲網は、あっただろうか。

たられば、を所詮たらればだと片づけることは簡単だ。

しかし、歴史は学問の一つである。そして、学問は科学から逃れられない。

科学とは複雑系に時間とともに与える条件を変化させ、どう変わるか、実験したり、それが不可能なら、論理的分析を施すことにある。

「核無き世界」で、原爆投下の悪意が「計上」された意味は大きい。

日本国の全ての政治勢力は、この歴史的事実を、全面的に認めて方針を転換しなければならない。

さらに踏み込むが、「核無き世界」だったからこそこのナチスのホロコーストを超えるといっても差し支えない程の巨大な悪意が「計上」されたのだ。

日本に核抑止力があれば、この悪意が計上されなかったことは明らかだ。

悪意の均衡があれば、世界は巨大な戦争に突入することを免れた。これこそが、核抑止の神髄である。

一方が悪意を持ち、ボタンを押そうとしているときにそれを食い止めることは、もう一方も同じ兵器をもちいつでも反撃に使えることを示すこと以外にない。

別の角度から、理論的に説明して行こう。U国とR国が1発の核弾頭で均衡していたとする。

この時、核開発に成功し、年間100発の核弾頭の密造能力のあるC国がその悪意を具現化すると

一年後の状態ではすでに、C国が100発の核弾頭を保有しており、

U国とR国がそれを上回った生産を行っていない限り、均衡は脆くも崩れ、C国の悪意を止める手段が世界から消える。

もしU国とR国の均衡が10000発だったらどうか。C国が100発の核を保有したところで、均衡は崩れない。

物理学的に言って0発に近い均衡は系が不安定であり、やや、難しい言葉を使うなら、ポテンシャルエナジーが高いということが分かる。そして、ポテンシャルエナジーが高いところにあるボールは、するすると転がり、安定した位置に向かって移動する。その状態遷移が核戦争である。

では、核均衡は大きければ大きいほど、系が安定なのか。

実はそうではない。少ない数の核弾頭では、確率的に小さい、不慮の核戦争、例えば、テロリストへの核爆弾の流出や、エラーによって起こる核戦争の確率が、均衡の数の増大とともに増加するからだ。

だから、系のポテンシャルエナジーを記すと、有限値の適切な値のところのポテンシャルエナジーが最も低く、系が安定し、それよりも、小さくても、大きくても、系はポテンシャルエナジーを減じようとして核戦争に至ることが分かる。

話が「理論的」に飛んだので、現実的な話をしよう。

世界の主導権を、金正雲や、習近平に託すことは正しい選択と言えるだろうか。

民主的な国家の軍隊でなく、独裁者や、一党独裁の軍隊がいかに危険であるかは論を待たないと思う。

かつての日本でさえ、民主化は自主的に進んでおり彼らよりも数段、民主的な国家であったのだ。

それでさえ、ゾルゲと尾崎秀実による悪意を許してしまった。

まして個人経営や、党の経営する国家なら、そういった悪意の介在する確率は格段に高く、また、その頭脳自体が世界の安定に悪意を持つことは十分考えられることである。

非常に危険な勢力が何の歯止めもなく、核を持とうとしている。

それが世界の現実である。

かつて、ヒトラーは「大英帝国は血を流すことを恐れている」という思い込みから戦争を始めた。

日本も血を流すことを躊躇っている。もしくは、核を持つことを躊躇っていると認識されたら、東アジア地域で紛争が起き、日本に原爆が投下される確率は極めて高い。

ここで、読者の中にはアメリカ合衆国の核抑止があるではないかという人がいると思う。

だが、筆者は、アメリカの核は全くあてにならないと考えている。

理由は簡単で、過去は、習近平をはじめとする、「狂人たちの核」が、届くのは日本周辺の東アジアだけであり、米本土は全く無傷で、核による「アウトレンジ戦法」が通用した。

しかし、今や、すべてが変わった。狂人たちの核はその射程を延ばし、遂にアメリカ本土がその射程に入ったのだ。

この状況で狂人たちが、「自分たちは十分に狂っている。日本を助けるために核を使えば、たとえ自分たちが全滅してもアメリカ本土を核で焦土にする」と脅せばどうか。

アメリカの政治家も国民を相手に政治をしている。アメリカの戦争を限定的にしか助けてくれない言わば、

「限定同盟国」の日本のために、本土を焦土にしても助けるという選択をするかどうかは、甚だ疑問である。

ここでも、原爆投下の悲劇を強調する日本の試みは、アメリカを、日本を助けることについて及び腰にする

材料を提供してしまっているという点において、逆効果となっている。

現実と理想の両方を考えるならば、核を適切な均衡に導くことこそが正しい軍縮の道であり、

悪戯に核廃絶を求めるのは、戦争を呼び込む行いである。

このまま、日本が非核化を訴え続ければ、我々の子孫は、永遠に狂人たちの言いなりになるか、それとも、狂人たちの原爆の熱線と放射能で全滅するのか、選択しなければならなくなる。

反対に我々が核武装を選択すれば、没落しつつある、アメリカによる平和を大いに補強し、アメリカにも

「我々は、それでも良いが、核武装した日本はそれでは黙っていないだろう。どうなっても我々は知らない。」

と狂人たちを脅すカードが一つ増えるのである。

最後に、核を持つ際の重要な精神を書く。

我々は、狂人たちとは違い、野心や、野蛮な領土拡張計画の実現のために核を持つのでない。

日本こそが、核の悲劇を知る日本こそが、核の番人として均衡を監視し、真の世界平和を実現維持するために、核を持つのだ。

我々は、善人であるがゆえに核を持つ。その考え方を徹底しなければならない。

広島、長崎で亡くなった方々のためにも、二度と、核戦争の悲劇を起こさないためにも、日本は善人として核を持ち、真の世界平和の実現と維持に向けて、影響力を積極的に行使しなければならない。

正しく強くあろう。それこそが日本である。

 

菊地 英宏

山口多聞記念国際戦略研究所 代表

沖縄からの陸上兵力の大規模移転は、沖縄県の地域的自殺行為である(論考・菊地)

2015年4月19日に

The Scientist’s Review of International Defense

に沖縄の基地問題についての記事をリリースしました。

主要なトピックスは、

・アメリカ空軍の新型輸送機C17とオスプレイの極めて重要な関係。

・沖縄に大規模陸上兵力を駐留させるのは、沖縄の平和のためである。

などについて触れています。ぜひ、御一読を。(菊地 英宏)

沖縄からの陸上兵力の大規模移転は、沖縄県の地域的自殺行為である(sridブログ)